Recall - 想起
芽吹く草花
芽吹く草花、春の小川の水、夏の野原のこと。土の香りと紋白蝶まで、戦前の風景は、今でも鮮明に甦る。昭和のはじめ、東京郊外、武蔵野の絹織物の町八王子に建てられたクリーム色のドアと窓枠が陽に輝く、しゃれた一戸建の創作ダンススタジオ。母の手製の稽古着をきて赤いダンスシューズをはき、最年少の生徒としてレッスンに加わった。みんな翳りのない笑顔が眩しかった。
やがて軍人たちのカーキー色が巷を闊歩し、隣り組の回覧板が忙しくまわされた。食べるものも着るものも次第になくなり、垢で黒光りしたわたしたちの頭上に、B29がしきりに爆音を響かせた。信じられないほど惨たらしく焼けただれたのは、終戦二週間前。わたしは小学校の六年生だった。煙でくすぶる街の風景は何もかも低くなり下の方でひらたく灰になり、疎開先からようやくかかってたどりついた我が家も、ぺしゃんこに潰れて、灰になっていた。
戦後の焼け野原にはバラック建ての家々がまたたく間に建ちはじめ、闇物資が飛びかい、新興成り金がめきめき頭角をあらわす。人々がしゃにむに生活の立て直しに奔走するなかで、わたしたち家族はなかなか立ち直ることができなかった。わたしたち兄弟は、早くから自立の道を模索しなければならなかった。
わたしの気持ちは敗戦を機に急速にダンスから離れていった。そんな頃、自分の体が疎ましくなり、わたしは体を嫌った。それはそのまま、ダンスへの反撥となった。
日本文化の構築された伝統は、きっちりと確立されて存在していたが、不幸なことに戦後の混乱期には、古典芸能に触れる機会は乏しかった。眼前にきらめいていたのは、西欧からのアヴァンギャルドばかりだった。今思えば、日本の戦後の零地帯に身一つで放り出されたのが、私の幸運だったという気がする。
潮流
複雑・過密化した社会の生存競争の波はいつの時代でも、日本でもアメリカでも競争・闘争の連続であった。
1960年はじめの正統に対する反逆の波は最高潮。「人間否定」「ジャンクもアート」反正統の異常美が従来の美を覆すさまを全身であびた。それが時代の美の定義におさまれば、人々は右往左往。そして次の波にまた踊らされた。
ベトナム戦争終決直後の解放はヒステリー症状で、エロチシズムと共に一挙にダンスが大衆のものになった。ダンスエクスプローション・パンクロック・エアロビクス・太極拳・ヨーガ・ブレーキング......舞踊家の多くは開店休業。
そして ”舞台で生きる” という意識が主流になれば、ミニマルアート・ポストモダン・ニューウェーブ・ネクストウェーブのまたネクスト.....とめまぐるしい。
この順でそっくり日本にも流れた。しかし、日本での主流は、クールな米国と異なる、ウェットな ”舞踏”の萌芽であり、アンダーグラウンド、赤テントに続き三島の割腹...。
今日まで数えきれない波に揉まれ、多くの人々が押し流された。音楽の世界もアートも同じ運命でコマーシャルデザインに食いつかれた。すでに「人間存在の核」などの研究は追いやられ、目に見れる出来高に価値が置かれて、世界中が経済のアンバランスと共に再び戦いの匂いがたちこめてきた今、人々の心の大多数がオリンピック的競争心のトリコになれば、歴史の繰り返しになろうか?
誰にも止められない。
他と競うエネルギーを自分に向けるセルフコントロール (自分を操れれば) 以外の道はないのかもしれない。人としての生き方を模索する精神は生き続けて欲しいと希う。