Reviews 評論 など
三条万里子の動きにまつわる空間は実に重要だ。
ボディが空間を通じて動くだけでなく、
空間そのものが形と重要な意味を
おびてくるのである。
これらの知覚は日本語の”間”とゆう言葉で
表される日本独自の様想である。
ジュディ カーン CCTレビュー
1973.3
訳 クサカ シロウ
三条の体は完璧に調整された道具であり、
彼女の演技は子供の遊びのように
自然である。(細工がない)
それは非常にむずかしい動作を
さりげなくやってのけるのである。
おどろく程すがすがしい公演であった...。
ジタ アレン ダンス マガジン
1975.11
訳 ミチコ ノイフェルト
三条万里子のダンスには、
目に信じがたい程の並々ならぬ
催眠術的な強烈さがある。
全ての作品に与える所の儀式の強烈な
フィーリングに基づくものである。
....我々は厳粛な美学上の儀式に参加した
という感じを抱いたのである。
ドン マックドナァ ニュヨークタイムス
1976.9.21
訳 ミチコ ノイフェルト
”鳥”は並々ならぬ踊りである....
この踊りは非常につつましいもので、
色ずけも飾りもない。
それは完全に自己充足した踊りで、
その構成はきびしい。
その結果は、時間と空間を超越したところでこの踊りが感情の原型となるのである。
ロバート ピアス
ザ・ソーホーウィークリーニュース
1976.9.30
訳 ミチコ ノイフェルト
美しく(かたくなまでに)
何度も繰り返される”鳥”の上演で、彼女は
例えばほろ苦いカザルスの
チェロによる伴奏の音楽が、
彼女自身の内部に引き起こす感情のざわめきに対抗して
激しいばかりの集中力によって
精神の静けさを保ち、
自己の体内の何物かに
耳を傾けているかに思われた。
デボラ ジョウィト
ザ・ヴィレッジ ボイス
1976.10.11
訳 ミチコ ノイフェルト
繰り返しは禅の雰囲気を作り出すことによって
一つ一つの区切りに含まれている
内的な感情又は思想についての
冥想に更けることを可能とする
彼女のソロをみて
最初は深い悲しみに陥り
2回目では悲しみに圧倒され
3回目では泣かずにいられなくなる
ジーン ノクターン
ニューヨーク ウーメンズウィーク
1976.11.1
訳 ミチコ ノイフェルト
三条万里子は、
一人の人間の天才の一片を
畏るべきまでに高度な演劇性に写しかえることが
可能であるということを
実証して見せたのである。
非常に東洋的なニュアンス、
或は儀式の感覚といったものを、
モダンダンスとの興味ある融合がなされた。
ブリト ラファエル
ウィズドム チャイルド
1976.12.13
訳 ミチコ ノイフェルト
”鳥”.....美術や文学において、
すべての神秘的な女が霧の中から
現れてくるイメージを思い出させる
実際のシーンなのである。
これは、今までに私が見た中で最も美しく、
最も完璧なシーンであった。
アマンダ スミス ダンス マガジン
1977.5
訳 ミチコ ノイフェルト
舞台に立つ三条は非常に力強い。
舞台の彼女から目をそらすことは、私にとって
不可能であると同時に考えられないことである。
彼女は、この劇場の無限の空間を巧みに利用して、迷い去ることによって
彼女のエネルギーを消失させる。
その広大な空間から目に見えない糸で、
エネルギーを彼女の内部に吸い寄せるのである。
ロバート ピアス
ザ・ソーホーウィークリーニュース
1977.9.22
訳 ミチコ ノイフェルト
”鳥”は、荒れ狂う力と死の硬直とであり、
ウラノワの”白鳥の死”のように
最も基本的な肉体の感覚、
すなわち死とたたかう肉体についての
ダンスである。
トビ トバイヤス ダンス マガジン
1977.12
訳 ミチコ ノイフェルト
三条万里子のダンスは、
あるものから他のものへの変換 (変形)
を示すか、さもなくば儀式である。
歌舞伎では、黒子を無視するのがしきたりであるが
三条の作品では、
黒子は脇役か主役として扱われる。
これら顔なしの者達は、
言語道断な式典をとり行っている
或る種の秘密結社の分子で、
悪意にみちた危険な連中で、
気が狂ってしまった世界を暗示している。
ロバート ピアス
ザ・ソーホーウィークリーニュース
1977.12.22
訳 ミチコ ノイフェルト
”鳥”においては
それが避けがたい死との対決であるとすれば
儀式的で壮観、
悪夢であるところの”VoiceII"では
我々は、出生の目撃者となるのである。
リンダ スマル ダンス マガジン
1978.2
訳 ミチコ ノイフェルト
舞踊家としての三条の評価は、
これまで熟練した技術と、演劇的感覚、
そして彼女の知性に与えられて来た。
それが今、年齢に伴った熟練と経験によって
一層とぎすまされ、
眞に純粋なレベルに到達するに至った。
ドナルド リッチ
ザ・ジャパンタイムス
1983.11
訳 西澤みどり
彼女は
大勢の日本のダンサーの
出来ないことをやっている。
日本のアイディアと日本から受けたものを使うが、
その両方を普遍性のあるものにする。
そんなにも豊かに内面の感情を表現する
パフォーマンスは
希であり、大切にすべきである。
テリー トゥルッコウ
アサヒイブニングニュース
1983.12
訳 ミチコ ノイフェルト
透明感を増した”鳥”.....
踊りの骨組みがよく見えると
言うことでもあり、この作品がまず間違いない
ものであることがよく判る。
50歳の立派な会である。
ああ、これが50歳の踊りだ...と納得する。
合田成男 週間オン・ステージ新聞
1983.12.9
三条万里子はあらゆる感情や身体の
さまざまな作用自身をも
いったん内側に向けて蓄積し
それを肉体との相互作用として
徐々に外側に向けて放射していくように思われる
”鳥”は前回も絶賛を浴びたもので
この美しく単調な名曲で彼女の理論やメソッド
そして主張などが美しく最大限の
密度をもって表現された
超満員の観客は長い年月
そして自分に厳しく培った蓄積が
まさに数分間の草月の舞台での燃焼に
共感を持ったことであろう
早川俊雄 週間音楽新聞
1983.12.4
ソロを踊って観衆をも自分の”場”の中へ
引き込める舞踊家が何人いるだろうか。
三条万里子は、その数少ない中の一人だろう。
独自のメソッドと強靭な精神力による
セルフコントロールが彼女の動きから
虚飾を排して
私達は肉体の生身の表現に
向き合わなければならないのである。
初めて踊るブラームス、特にワルツは
軽妙さと同時に内的沈潜をも持つ難しい曲だった。
それを抑制された表現で見事に踊りきった。
よくあるように
「ブラームスで」ではなく「ブラームスを」
踊ったことを賞したい。
馬宮守人 芸術新潮
1983.12
三条の舞台は内的衝迫力がある。
踊りへの姿勢は東洋思想的で
断食を含めた密教の行、
ヨガ、活元運動 (野口晴哉) などから創案した。
これは体の中と外、個と宇宙の感応を
体で知覚認識する
鍛錬で体の極限をめざす。
嶋村久子 毎日新聞
1984.1.15
三条万里子は
ダンス界における卓越した存在である。
故国の日本でモダンダンスを学んだ上に加えて
学んだ米国のマーサ・グラハムの
テクニックにおいては伝説的である。
三条は正統派から前衛派へと突き進む過程で
その重要な存在故に両派からの多くの追従者を
アメリカでも日本でも持っている。
アマンダ スミス ダンス マガジン
1985.6
訳 ミチコ ノイフェルト
透明なエッセンスにまで昇華しつくした彼女の肉体、限りなく死に向かって傾いていき、そのまま硬直していくかにみえた。祖国を独裁によって奪われた永遠の亡命者カサルスの悲哀、スペイン人民戦の挫折ロルカの死、そして自由と抑制、愛と裏切り、生と死の変容がうかがわれ、ここに私たちは情況の死とそれへの鎮魂を感受したのである。それにしても50歳になると言う肉体の何としなやかであったろう。
1984.9.7 朝日グラフ
仮面をかぶって生身の身体を消し、
無名性の代償にのびやかさを獲得した
平明な踊りだった。
(埴輪IIとボイスII)
53歳の年齢も隠さず、
今や肩ひじ張らぬ淡白な境地である。
木村英二 夕刊 読売新聞
1986.8.8
三条万里子は一層シャープになっていた。
まずその肉体、
荒行をつんだ行者のように骨と最小限の筋肉と
皮膚しかなく息をのんだ。
徹底的に余分なものを削ぎ落としたのだ。
根本的かつ急進的という意味で
全くラディカルな人だ。
嶋村久子 ダンス ナウ
1987.7
"カノン"は87年の作品だ。
彼女達の体が安定し、しっかりと地面を掴んで立ち
そして動いていることに感動した。
人間の体のあり様に対する三条の主張が
ここには凝縮されているのだ。
”ララバイ”も87年の作品で
三条のこのソロは創作でありながら
(民族的な雰囲気) 自然と一体になるようなものを
無理なく漂わせる。
三条の踊りは小粋でありながら、
在る種の人間的な迫力に満ちていた。
山野 博大 週間オンステージ新聞
1988.8.12
からだそのものがスピリットである三条万里子。
彼女の肉体では外界と内部の境は消され、
表現された動作と、それが沸き起こるスピリットの内部との間には差がなく等しい。このような身体はコレオグラフィ(演出 振付) という概念を根底から覆してしまう。彼女の踊りでは、すべての動作は真実の表現である。
ナタン ミショリィ ハァーアレッツ
1988.9.6
訳 ミチコ ノイフェルト
”三条万里子の振付は東洋と西洋の完璧な融合であり、しかもオリジナルなものである”
パブロ カザルスのアレンジによる
カタロニア民謡を使った彼女の踊りでは
その意図的で慎重な運びと激しい緊張感に
思わず息をのんでしまう。
動作には寸分の無駄もなく
すべての動きが絶妙で同時に優雅である。
ドラ ソウデン
イェルサレム ポストマガジン
1988.9.9
訳 ミチコ ノイフェルト