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Thoughts- 思い

​「イカルスのように」について

甦る体の記憶

 遠くから音がきこえる……。聴覚が一番先に暁を知らせてくれる。それがいつもの目覚めの一日のはじまり。乱脈に跳び交う記憶の破片。とろっと沈みこんだ体の中で、考えの切れはしが心をよぎり、夢をうごかす。わたしは今どこにいるのか。背中と手足をゆっくりのばす。甦ってくる体の感覚。あっ、ここはニューヨーク。かすかに昨日からのつながりが思いおこされ、体があることにほっとする。        

 浮きつ沈みつしながら、夢とのあわいをさまよう。日本語と英語の混ざりあったような言葉を聞く。そのとたん、わたしの体は日本へ、それも小さかった記憶の時のなかへ、飛んでしまう。まちがいなく戦前の、あの湿った土の匂いのする草むらをひらひらと飛ぶ。まるで紋白蝶にでもなったかのように。 -「イカルスのように」より-

​                                                                                        

すでに踊り手として人前から去らなければならない六十歳になろうとする頃、わたしは突然に文章を書くことにのめり込んだ。それは50という数字に驚いて、思わず舞台に飛び乗りブラームスのワルツを踊ったときのよう。また、四国巡礼も、予定の三十年も前に突然にお参りを始めてしまった。

 

早口に喋り立てる力が体のいたるところで動き出し、書く速度は滑るように速くてゆるまず、紙と手では間に合わない思い…水が流れるようにひと息に踊り切りたい!と願ってきた習慣がそうさせるのか。

 

書き溜まったその文章は、十年後の七十歳に初めて刊行された。

 

今、そのページをめくれば、ニューヨークと東京のこと、舞台のこと、衣裳のこと、音楽のこと、体のこと、などなどが収拾つかないほど広がっている。しかし、多くの先達から受けた数々の体験の記録。特にそれらの全てが瞬間に受けた驚きの感銘であったことが目立つ。

 

例えば<マルセル・マルソーのお辞儀><アンソニー・チューダの立ち姿>の美しさ。<ジャコメッティの彫刻>と<アルビン・エイリーの即興>の魂の奔流。<高村光太郎・宮沢賢治の言葉の行間から>の心、などなど。

 

また「イカルスのように」には記せなかったが、逢うこともできなかったような歴史の偉人(ブッダ・キリスト・預言者・弘法大師)の書籍からの教示。そこからの小さい一行の言葉によっても、猛烈にわたしの体にくい込んだ。ほとんどが瞬間に、そのエッセンスの光を差し込まれたように感受したのである。その時、驚きと感動でわたしは号泣したのだった。

 

感受した宝のようなことがらは、数十年の月日の時間に思考と行動の経験を通して育まれ、まさに血肉になったことが判る。

 

それは、公演前(東海テレビ局テレピアホール杮落とし、オープニングイベント)のインタビューで司会者の質問に即座(スポンテニアスリー)に答えた自分の映像記録を見ると、踊りのタイミングのようなリズムでしゃべり、その内容と共に、今のわたし自身が信じられない程の言葉使いにも驚いたのである。やはり、作品の指示を天から受けたのと同じように、文章もスピーチの能力も背後の誰かに動かされたか、授けられたのであろうか…?

 

若い頃、どっちに踏み出して良いか…行動前に迷いに迷って苦しみ、決断しづらかった長かった時期を俄かに思い出した。善悪、正邪、己れの欲の量のコントロールもままならなかったあの頃を苦々しく振り返る。

生命の息吹を形に

容器に注いだ水が溢れる寸前、表面に盛り上がり、こぼれ落ちるのを堪える<表面張力>といわれる現象があるが。感情のエネルギーにも、人の生理にも<表面張力>がある。強弱のコントラスト、リズムや速度の変化などの動きの必然性をつかむために、エネルギーを押え込むことや、情動が溢れるのを待つことが重要だ。

人の動作の豊かさは、生きて動いていることを暗示させる在り方であり、決して揺るがない建築物のような堂々としたバランスではない。華道における花の活け方も同じで、人や草花のように生命あるものの表現は危ういバランスの中に成り立つバランスこそ、味わいが深い。

​視覚を蔽って

息をこらした人々の気配がしーんと伝わってくる……観客の視線を一つに集めた舞台の空間には、幕があいた瞬間、気も転倒するばかりの澄んだ硬さがぴんとはりつめた。眼を布で覆って闇に立ったわたしは、皮膚が光を求めたのを知った。徐々に舞台に明かりが入るのを皮膚が感知する。俄かに身辺にひろがる空間は、まるで万華鏡のただ中に体が置かれたかと思うほどの錯乱を誘う。全身が竦むような感覚に堪える。やがて首筋や背筋が気になりはじめ、何かそそり立ってくる感じになると奮い立つ。俄かに食らいつきたいような衝動とともに体の疼きは動きの波紋になり、エコーのように呼び交いながら、倍速で広がりだす。そうなれば、もう自分の体が自分のものではない……。観客からのエネルギーを一身に浴び、受けとめきれない過剰な豊かさの中で、見えない何かにむかって身も心も一直線に進んでいく。

 

そうしたもの、なにか言葉では言い現せないフィーリングが大気を伝わって劇場に響き、広がり、見る人に手渡されるのであろう。個人的な作業と経験によって育まれた感性は、劇場に集まる多くの人々のエネルギーと感応し、それが発火すると、測りしれない普遍の本質とでもいうものにまで昇化して、宗教でいう<天界>とか<虚空>とかいわれるところで、瞬時に生産や交換が成り立つように思われる。それは自分が一観客や一読者になったときにも、同じように起こることであり、<観る><読む>という行為によって、自分で掴み、享受することでもある。

危機均衡の中の均衡    

 (アンバランスの中のバランス)

時空を翔び、瞬時に消えてしまう一回性の身体芸術。舞踊は音楽と同じように行為(アクション)が大気を通し、人の感覚に響いて、その体を通過し生産物質はなにも残されない。

 

その時、演技者の体内で生まれる想像力と創造的技術の濃密さが、過激に、実に烈しく要求される。見事に一回性につらぬかれた営みである。これこそ体に宿る高揚する精神の刻印。

 

わたしには忘れられないいくつかの舞台がある。また決して心から消えることがない舞台を観た経験がある。世の中にこれほど豊穣に包まれた感覚の悦びがあるだろうか。善悪、正邪など微塵も寄せつけないところに美の姿があることを、そして生きている証があることを、悦びをもって受けとめる。

​                                                                                             

​醍醐味

「おやすみなさ〜い」ベッドに入り、あっ!このままで眠ってもいいのだ...と思う時の醍醐味。また、うらうらとしている春の気分もすてきだが、うつらうつらとして居眠る夏のひるさがり。あのめくるめく睡魔に襲われる時の心地よさ。この世の天国にも匹敵する。

しかし、こんな感覚を味わえるのは、忙しさに追われていた若い時のもの。今はうっかりしていると気付かない間に眠ってしまう。まぁ、勿体ない....あの強烈に感じた睡魔の到来のような醍醐味はもう味わえないでいる。

 

素早い動きが鈍り老境に入った私は、八十五歳。

この世の仕組みのすべての役割(振付、演出、踊り手、妻、母親、子供)から解放された今。この開放感はずば抜けて素晴らしく、幼い頃のあのうらうらした日々に戻ったよう。今まで随分と自由に振舞って来たと思うものの、『あのフリーダムはこのことだ!』という実感に驚歎。七十代には判らなかったことの答えも与えられる思いの昨今。はじめてゆっくりと読書をでき、自由に考え、過去の検証(ダンスのこと、愛とは、恋とは、夫婦とは、人間とは)と老いの行く末にもたっぷりと集中できる時間を持てた。

 

祖母と母の、他界し逝った年齢を越した今、幼い頃をしきりに思い出す。

封建性の強い時代に生き、衣食住・医療の最も乏しい敗戦後の混乱期。そのただ中でさえ文句(コンプレイン)と言い訳(エクスキューズ)を決して言わず、身を以てわたしたちに示して逝った祖母の最期。

 

東洋的倫理観の強い現れであるが、意識を内側に向けて、きっちりと”自分を律した姿”は今でも脳裡に残る。何ごとも自分を抑え制御 (セルフコントロール) できれば、一歩ずつでも己れを解放できると思って歩いてきたわたし。潜在的な道しるべだったのであろうか。しかし、最後に祖母のようにできるか?

​祖母、父母を経て

​父母からいただき、慈しみ育てられたこのからだと心。

奇跡的な力が働くことを知った私は、可能性を探り一歩ずつでも望む方向(人の生きる”美”の姿)に歩もうと思った。父母から受けて来た己の素質(長所・短所)をいかに活かせたか、修整できたか否か?の検証の時期に入ってしまい、慌てている。

 

何を選び、どのように自分を作りあげていくか?という自由は誰にも与えられていると思う。

数知れない多くの先達からの恩恵に感謝の念でいっぱいである。

そして今…

わたしはどのように在りたいか?

考え続け、動き続けて遂に八十年余りも経った。

もどれない処に翔んでしまう怖さをからだが感じたくて創り、踊り続けてきた。

今、目の前に迫った「白道」を疾走するか、ゆらゆらするか、踊りながらか、

思案中。

 

わたしは常に考える。冥界につづくであろう歩みの終わりの道すがらに、どんな音が聞こえるのだろうか……。

イスラエルに吹いていたあの風の音も聞こえるだろうか……。夜ごとの眠りにおちる、刻(とき)の中で、わたしはいつもきまって最後までのこる聴感覚を、かすかにたどる。

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